20110430京都でふと立ち寄ってみたお土居

 GW初日の29日より、京都へ帰省。そのついで、ちょっと気になる「お土居」近辺を再度散策。場所は京都山科西野。以前は気づかなかったが、道沿いにちゃあんと看板?が立っていた。
 
[説明文]
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以下、」全文…だと思う(^^ゞ
山科寺内町
 
 ここは戦国時代の中ごろ(一四六八年~一五三二年)、本願寺教団の本山として繁栄した。自治と自衛の町「山科寺内町」のほぼ中央にあたる。いま中央公園にみられる小山は、かつての寺内町の平和な生活ヲ]守るために町全体をめぐっていた「土居」の一部である。
 昭和四八年夏、この団地の建設に先だって発掘調査がおこなわれ敷地の中央から南北方向の土居と濠の跡(合わせて幅32米)が検出された。」それは寺内町の内部を区画していた遺構である。この土居は、すぐ北側で直角に折れて西へ向かい、いま西野の旧集落の中に保存されている土居につづくらしい。この西南の一廓は、五〇〇年前の本願寺の御影堂や阿弥陀堂が建ちならんで「御本寺」とよばれた。その反対側、公園にある土居との間「内寺内」には各地の末寺の出張j所(他屋)や本願寺の坊官の屋敷がならび、この敷地の北に接する道がメインストリートだったと考えられる。
 その他、敷地の東北部にはその道に面していたらしい大がかりな建物跡、濠跡の東側には東西二〇米にわたって積まれた石垣とそれに平行する柵列跡、さらには砥石や鉄?を伴出した鍛冶場の石組炉など、いずれも内寺内域から発掘されたものである。また生活に欠くことのできない井戸の石組も発見されている。また、遺構の上には全面にわたって、山科寺内町が焼き打ちにあって亡んだことを示す焦土が堆積しており、それにまみれて出土した甕や小皿やすり鉢の破片は夥しい数量にのぼった。
 このようにこの付近一帯には、戦国の乱世を生きぬきそして亡んだ山科寺内町の跡が確実に埋もれています。いま公園の中と新幹線をはさんで南北につづく土居と濠の跡は、そのことを私たちにものがたってくれる貴重な文化遺産なのです。
 昭和五十年
 
[説明図]
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[件のお土居…正月に…した画像…]
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遺構の上には全面にわたって、山科寺内町が焼き打ちにあって亡んだことを示す焦土が堆積しており、
京都じゃ、あちこちこんなんばっかり(^^ゞ
 
ちょっとアカデミック(笑)な時間を過ごした京都であったが、夕刻には帰宅。今夕の温泉は宝塚「宝乃湯」。ちょっと覚悟はしていたが、思いのほか空いており、濃ゆ~い(含鉄風)塩泉を堪能。宝乃湯を選んだ理由はもう一つあり、それは「散髪可」であること。奥さんより30分早くでて、散髪券を購入…いそいそと散髪室へ向かうが…「今日は終わりました」とのこと。先に券売機止めとけよな~とか思いながら、払い戻しして貰い…、しょうがない来週どっかで時間見つけよう。
しょうがないから、あちこち歩き回りブログ増強用の画像を撮りまくる(って程でもないけど)。というわけで、近々「宝乃湯」の画像を強化します\(^o^)/
 
んで、帰り道、仁川の「しぇからしか」に久しぶりに立ち寄り…替え玉して満腹…そして帰宅したのであった。
 
ツバメの巣が2つに増えてた。楽しみ~。